SRYニュース 2006
SRYニュース 2006

「日本人として生きた40年」






 25歳でブラジルへ単身で渡った須藤英二さんと15年ぶりに再会できた。40年ぶりの日本帰国である。
 カンポ・グランデ南米本願寺仏教会の会長として招聘された。ふるさとの群馬県太田市から都内で調理師として修行してからの渡伯となった。
ブラジル移民の話は、いろいろと知ることが多い。しかし、直接のお話には迫力がある。「自分ひとりしかいない。自分の力しかないから必死に何でもやらなければならない。日本人として誇りと、自分の力が生きるちからなんだ。」
現在は、南マットグロッソ州カンポ・グランデ市内でのレストラン経営が成功している。

 15年前、私が太田市の経営者団体とともにサンパウロ市へ訪問した際に、群馬県人会として10数時間も掛けて駆けつけていただいた。太田市在住の実弟からの写真などをお届けした思い出がある。ブラジルでの成功体験からは、力強さの中にもやさしさが溢れている。お人柄からブラジルの中でも友人が多い。お隣の50キロほどのところには、小野田寛郎さんが小野田牧場を経営している。お二人の親しい写真も2枚いただいている。

 小野田さんは、2004年日本人では初めてブラジルのサントス・ドゥモン勲章を、翌年藍綬褒章を受章している。私の父と同じ年(大正11年)生まれ、終戦もフィリピンで同じ陸軍少尉として迎えている。しかし、任務の違いでその後の人生はあまりにも大きく違っている。奥様の町枝さんは、日本女性の会会長をされている。
 財団法人海外日系人協会では、南北米、ハワイ州そして豪州に約250万人の同胞がいるとしている。ブラジルは、明治41年笠戸丸から移民がはじまり、戦後もアルゼンチナ丸などの移民船で25万人に達した。現在では、130万人がいる。子孫たちは、勤勉さと教育の高さから社会的地位の高い職業にもついている。

 移民一世ではじめて駐日大使となった田岡功さんは、南米パラグアイに昭和33年14歳で家族と移住している。比較的めぐまれた条件下であっても移民生活は厳しかった。パラグアイ政府からの援助と1970年からの日本政府の援助で救われたとしている。田岡さんを支えてきたのは、父親の教えである。「大和魂」をよく口にしていた父親からは、年長者を敬う日本人の美徳を厳しく教育された。「私が大使になれたのは、日本人として生きてきたからだとおもう。」と語っている。(日経新聞2006年11月4日付)

 かつての移民者たちの子孫は、いま日本へ働くためにやってくる。最近のメディアでは、日系人への厳しい日本企業への批判がでている。日本は、もはや外国人労働者なくして成り立っていかない。経営者は当然、正しい雇用をしなければならず、「金さえあればいくらでも来る」とか「使い捨て」的な考えは通用しない。「こんな日本では働けない。」と失望して見切りを付けられたらどうなるだろうか。
 本気で日系人や外国人を受け入れる環境整備とともに、日本人としての「大和魂」についても考えるときが到来している。



人材育成こそ産学連携で実現—自律したキャリア形成へ







 企業の競争力や成長力は、人材の育成ぬきには語ることはできない。産学連携にも人材育成が 注目されている。ここ群馬県太田市では、太田商工会議所などが群馬大学工学部へ「金型学科」の 要請をしていた。組織改革中の大学は、2007年度に「生産システム工学科」を設置する ことを決め、学部のある桐生市ではなく太田市へ移す。工学部長は、「企業からの講師を招き、 インターンシップを受け入れてもらいやすくなる。」地元企業との連携に意欲を見せる(日経新聞)。

 企業側からの要請によって必要な人材育成を進める分野は、技術系ばかりではない。大学から 社会に有用な人材を輩出しようとする新しい挑戦が始まっている。 6月21日、「これからのワークスタイル」と題して富士ゼロックス人事部マネジャーである 石橋茂氏(写真)の講義を聞かせていただいた。石橋氏は、学生向けにご自身のキャリアを中心に キャリアデザインへのステップをわかり易く解説、「自律したキャリア形成」へ向けて 社会人基礎力の強化こそが必要だと強調した。90分間の講義は、短くも感じご自身の専門分野「テレワーク」 についてでは時間切れとなってしまった。しかし、学生からの拍手の大きさから関心の高さを感じ取ることができた。

 高崎経済大学経済学部では、通年にわたり大学以外からの講師により毎週水曜日に講義が新設されている。 前期には、『激動の日本経済を生きるー高経大卒業生のメッセージ』として電通専務の木村武彦氏にはじまり 14名によるリレー講義方式ですすめられる。後期は、『新地場産業に挑戦する地域の企業と経営』として 群馬県を本拠地としている企業経営者が講義する。10月からは、ヤマダ電機社長の山田昇氏から13名の 講義が予定されている。

 新設された講義は、学生だけでなく市民へも公開されている。すでに大学図書館は市民へ開放されている。 毎週水曜日午後2時20分から3時50分まで、1号館111番教室。事前申し込み不要。無料。詳しくは大学のホームページを参照。

市立 高崎経済大学
http://www.tcue.ac.jp



豊富な天然水につつまれる片品・尾瀬の魅力






 今年のゴールデンウィークの後半は好天にめぐまれた。絶好の行楽日和となった。 数十年ぶりにあの尾瀬で有名な群馬県片品村を訪問した。 片品は、ちょうど桜が満開の時季とあって車窓からはまことに見ごたえのある景色が続く。 なかでも圧巻なのが「天王桜」と呼ばれている千明家所有のヤマザクラの大木(写真)。

すでに樹齢は三百年以上のもの。先祖代々から継承されている。その千明家では、地粉を使った 手打ちのおそばを振舞っている。早速、舌鼓を打たせていただいた。 片品の「尾瀬」といえば水芭蕉。ここ片品村には、「水芭蕉の森」がある。夜にはライトアップされ、 深い森の中から純白の水芭蕉が浮かび上がってくる。その幻想さは筆舌につくしがたい。

以前、テレビ局がこの森でピアノの生演奏を中継している。 旅館「尾瀬しんこう荘」で、再び山菜料理に舌鼓を打った。「こごみ」(写真)である。 ふんだんな天然水は、お茶や珈琲までもおいしく仕上げている。限られた時期しか採れない 「こごみ」は、老舗料亭などで和え物料理や生のまま天ぷらに使われているが、 やっぱり「おしたし」で食する方が美味しい。

もともとアクがないのでゆでてそのまま調理できるという。(若女将)  片品のお酒店さんには、所狭しとワインがぎっしり詰まれている。 「こごみ」のつまみがこのワインを一段と引き立っているようにも感じる。 ちょうど大学生のテニス合宿といっしょで、ロビーで就活(就職活動)の様子が伺えたのも 収穫となった。そうそう、ここ片品の「尾瀬とうふ」もお薦めのひとつ。 通年、楽しめる尾瀬・片品は、大自然とともに静かに待ち優しく包みこむパワーを享ける。 今夏、またお世話になりたい。

(旅館「尾瀬しんこう荘」にて)



『いや〜、もう歳だから。』通用しない世界へ






 3月25日、高崎音楽センター大ホールは満席となっている。壇上には、施設者の高崎市長はじめ関係者、教授陣とともに新学長の木暮至氏から大学を巣立つ新社会人へ呼びかけた。

「山積する課題を抱えてる今日、様々な困難な課題に積極果敢に取り組み決してあきらめずに問題解決に向かってほしい。」 それは、どんなに小さな課題であれ、細心の注意を払って取り組む姿勢こそが肝要であり、本学の先輩諸兄の足跡からもこうした姿勢を学び取ることができる。

 翌日の産経新聞朝刊には、「痛くない注射針」の開発者岡野工業代表の岡野雅行氏が『人語り』に登場している。医療メーカー「テルモ」が100社以上に断られた末に岡野氏との共同開発となった。 その中で、若者たちへ「世の中甘くない。中学卒業して種をまき、20歳で芽が出て30歳で成長し、40歳で実になって、55歳でやっと収穫だ。でも今の人は、手っ取り早く結論を見たいだろう。20年辛抱できるか。『若者よもっと辛抱しろ。辛抱こそ人生を切り開く』といいたいね。」と結んでいる。 昭和8年生まれ73歳。戦争のため小学校しか行っていないからこの言葉の重さは強烈である。

 50歳を過ぎてから、再び勉強してみたいと思ったのはキャリア・コンサルタントの養成講座を終了するころである。 母校の経済学部に大学院が新設されたことも大きな動機となった。

キャリア形成では「スキル」は最も大切なもの。IQは生後3〜4年で確定してしまうが、スキルや知識は年齢に関係なく何歳になっても身につけることができるとしている。自ら実践してみたい。 振り返って、2年間はとても満足した。「目から鱗」の発見や学習の連続でもあった。いまや大学は、社会人への門戸を大きく開いている。夜9時までの講座が用意されている。
「いや〜、もう歳だから。」はもう通用しないようだ。

(高崎経済大学学位記授与式より)



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